Munch家庭のキッチン管理

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家族の食事の時間がバラバラでも、晩ごはんを無駄にしない作り方

多くの家庭で、晩ごはんはかつて、家族全員が同じ時間に集まって食べる、ひとつの決まった行事だった。仕事が七時に終わる人、部活が八時まである人、週によって勤務時間が変わる人——今では同じ鍋の料理が、何時間もあけて三回に分けて出されることになり、しかも全員がそろって家にいる瞬間はめったにない。ここで生まれる無駄は、食べてもらえなかった皿とはほとんど関係がない。むしろ、作った時点では問題なかった料理が、しばらく置かれているうちに、誰にとっても「まず食べたいもの」ではなくなっていく、という形で起きる。

晩ごはんは、ひとつの食卓を前提に作られている

ほとんどの料理は、ひとつの瞬間を中心に組み立てられている。ソースをかけ、仕上げをのせ、盛りつけを終え、温かいうちの数分間で食べきる。全員が同じ時間に食卓につくなら、この流れで問題ない。けれど、その一皿が実際に食べる人の帰宅を、時には二、三時間も待つことになった瞬間、この流れは崩れる。レシピを考えたとき、誰もその「待ち時間」のことなど考えていなかったのだから、料理そのものにその備えはない。「作り終える」と「食べる」の間は、以前はほんの数分だった。食事の時間がバラバラな家庭では、そこが読めない変数になり、その変化をまるごと引き受けているのが料理そのものだ。

この無駄には、大きく二つの形がある

1. 温め直しても、あまり食べたいと思えない一皿

ソースが固まって乾いたパスタ、端がかたく張りついたご飯、電子レンジに入れた瞬間にゴムのようになる魚——これらは傷んでいるわけでも、料理の腕の問題でもない。盛りつけを終えた状態のまま何時間も置かれたことによる、食感の劣化にすぎない。実際に食べる人が疲れて空腹で帰ってきたとき、この少しさびしい温め直しの一皿は、シリアルやトースト、あるいは出前と競うことになる。決め手になるのは空腹よりも食感で、そしてその食感は、三時間置かれた時点ですでに勝負がついている。作りたてとして出されなかった時点で、負けは決まっているようなものだ。

2. 見捨てられたように見えてしまう、実は取り分けておいた一皿

これは断られた皿とはまったく別の失敗で、ある意味もっと気づかれにくい。誰も「いらない」と言ったわけではなく、その料理が向けられていた本人が、まだ帰ってきていないだけだ。名前も書かれず、そこにある理由も特に示されないまま冷蔵庫に入り、二日前に本当に忘れられていたものと、見た目では区別がつかなくなる。次に冷蔵庫を開けた人には、「九時に帰ってくる人のために取っておいた」のか「忘れられていた」のか判断できない。だからどちらも同じように扱われる——見過ごされる、なんとなく怪しいという理由で捨てられる、あるいは違う人に食べられてしまい、本当にそのために取っておかれた人のところで、また同じ問題が繰り返されることになる。

本当の原因は料理の腕ではなく、人数が読めないこと

ふつうの献立の立て方は、作り始める時点で、だいたい何人が、いつ食べるかがわかっていることを前提にしている。食事の時間がバラバラな家庭では、この前提が静かに、しかも毎日のように崩れている。親は、思春期の子どもが晩ごはんを食べたいのか、部活の帰りにもう何か食べてきたのか、はっきりとはわからない。在宅勤務のパートナーは、今日は家族と一緒に食べるかもしれないが、明日はそうとは限らない。どれもわざわざ計画を立てるほどの話ではないので、結局きちんと計画されないまま、その都度なんとなく見積もることになる。見積もりを外すと、どちらの方向にも代償がある。多めに見積もれば、誰も引き取らない一皿が残る。少なめに見積もれば、あとで誰かが別に何か作ることになり、それがまた小さな余りを生む。

実際に効くのは、「出す」ためではなく「取っておく」ために作ること

効果があるのは、人数をもっと正確に読むことではない——思春期の子どもの予定をそこまで正確に読める人はいない——むしろ、すぐには食べられない分を、鍋から下ろした瞬間から、たまたま残っている晩ごはんとしてではなく、最初から意図して取っておいたものとして扱うことだ。具体的には、時間が経つと崩れる部分——ソース、パリッとさせたいもの、食卓で最後に加える仕上げ——をあえて分けておき、それを加えるのは実際に食べる瞬間、つまりそれが何時になろうと、そのときだけにする。味つけ前のベースは、しっかり仕上げた盛りつけよりも、待たされることにずっと強い。偏食の家庭で、ベースが断られた皿からでも立て直せるのと、理屈はまったく同じだ。まだ「これ」という一皿に固まりきっていないからこそ、待たせても崩れない。

ここから先は味の話ではなく、本当に安全にかかわる話

味とは別に、料理の内容にかかわらず守っておきたい一般的な目安がある。加熱調理した食品は、室温に置いたままの時間が二時間程度を超える前に冷蔵庫へ戻すのが基本で、キッチンが暑い日はそれよりも短くする。これは特定の料理についての判断ではなく、加熱調理した食品全般に対する、ごく一般的な衛生上の目安だ。だから、あとで食べる人のために取っておく分は、実際にその人が帰ってくるまでコンロや台の上で待たせるのではなく、この二時間という基準にあわせて、冷まして蓋をしたうえで冷蔵庫に入れておくべきだ。冷やして保存し、あとできちんと温め直すのと、「もうすぐ帰ってくるかもしれないから」と温かいまま台に置いておくのとでは、安全さがまったく違う。

これは料理の問題である以上に、家族という単位の問題

偏食の家庭で断られた皿を救いにくいのと同じ理由が、少し違う形でここにも当てはまる。取っておいた一皿は、本来ある一人に向けたメッセージのようなものであり、そのメッセージは本人に届く前に、まず家にいる他の全員の目にさらされることになる。「これはわざと残してあるもので、誰かのためのものだ」という合図がなければ、それは片づけるべき散らかりものか、すでに見捨てられた皿のように見えてしまい、次に冷蔵庫を開けた人が、それが本当は誰のためのものだったかに関係なく、その扱いを受けてしまう。

実際に効くこと

  • 時間が経つと崩れる部分——ソース、パリッとさせたいもの、仕上げの一手——は取り分けておき、加えるのは食べる瞬間にする。作る瞬間に全部仕上げてしまわないこと。味つけ前のベースは待たせても崩れないが、仕上げ済みの一皿はそうはいかない。
  • 取っておく分は、コンロの上で温かいまま帰りを待つのではなく、早めに冷まして小分けにする。実際に食べる人が何時に帰ってくるかに関係なく、二時間という目安は変わらない。
  • 何であるかだけでなく、誰のためのものかも書いておく。「鶏肉とご飯」と「鶏肉とご飯——◯◯さんの分」では、次に冷蔵庫を開けた人の受け取り方がまったく違う。
  • 翌日料理する人が、すでに何が取り分けてあるか見える状態にしておく。見えない状態で取っておかれた一皿は、本人に食べてもらえるのと同じくらい簡単に、違う人に食べられたり、片づけの対象として捨てられたりする。

これは、家族が同じ時間になかなかそろわない家庭のために Munch が埋めようとしている隙間そのものに近い。家族全員で同じ在庫を共有し、食材を追加したり使ったりするたびにリアルタイムで更新されるので、あとで帰ってくる人のために取っておいた一皿も、誰かが推測するしかない名前のない容器ではなく、目に見える、日付つきの記録として残る。レシピも、冷蔵庫にすでにある、開封済みの食材をもとにグループ分けされているので、翌日の献立は、誰が何をどれだけ取り分けておいたかを、ひとりの記憶だけに頼らずに決められる。

ここまでのことは、家族全員のスケジュールをそろえようという話ではない。それはたいてい、その家の誰にもコントロールできないことだからだ。実際のところは、ひとつの食卓のために考えられた料理が、何時間もあけて三回に分けて出されることになれば、そこで何かが失われるのはもともと避けられないというだけで、その失われる部分の大半は、残しておく分をどう仕上げ、どう冷まし、どう書いておくかで補えるものであって、家族が何時に帰ってこられるかとは、あまり関係がない。