偏食の家族がいても、食品ロスを増やさない献立の作り方
偏食の家族がいる家の献立は、たいてい「味の好みの問題」として扱われる。ソースが違う、食感が違う、ご飯におかずが触れているだけでも駄目。けれど実際の原因は仕組みのほうにある。ひとつの晩ごはんが、味という読みにくい関門をもうひとつ余分に越えなければならなくなっていて、しかもその関門を越えられなかったときの代わりが、ほとんど用意されていない。無駄の大半を生んでいるのは、偏食そのものより、この抜け穴のほうだ。
手をつけずに戻ってくる皿は、味の問題ではなく段取りの問題
家族全員に同じ一品を出すのは、今夜はこの子が「食べる」と言ってくれる夜だという賭けだ。たいていの夜はその賭けに勝つ。負けた夜には、すでに動き出している代わりの案がまずない。代わりの案は最初から計画に入っていなかったからだ。計画はあくまでその一品だけで、テーブルの一人にだけ通用しなかった、ただそれだけのことになる。そのあとはたいてい、その場でとっさに何かを作ることになる。疲れていて、しかもいちばん臨機応変になりにくい時間帯で、そういうときに慌てて作ったものほど、食べきれる量を上回りやすい。
皿そのものも味方にはならない。断られた晩ごはんは、きれいに切り分けられるものではないことが多い——すでに二口ほど手がついていて、いろいろな料理が混ざり合っていて、翌日そのまま活かせる食材ではなく、一回の食事として盛りつけられた一皿になっている。一度手をつけられて断られた皿を、あらためて温め直したいと思う人はほとんどいない。だから、手をつけていない残りとは違って翌日の昼ごはんにはならず、そのままゴミ箱行きになる。料理がまずかったからではなく、出された時点でそもそも「取っておける形」になっていなかったからだ。
無駄は大きく二つの形で起きる
1. ほとんど手をつけられずに戻ってくる皿
その日の分としてきちんと作り、一食分の量で盛りつけたものが、断られた瞬間に行き場を失う。何かの食材のストックではないので、翌日のスープやチャーハンには変わらない。すでに完成し、すでに断られた一皿でしかないからだ。
2. 作りすぎた「保険用の一品」
もっとよくある対応は、賭けをやめて、いつも確実な一品——素うどん、バター和えのパスタ、揚げ物のような衣ものなど——を毎回、しかも「念のため」に一食分より多めに作ることだ。これでその晩はしのげるが、その多めに作った分そのものが次の問題になる。一度に食べきれず、冷蔵庫の中で味がぼやけるまで置かれるか、ひとかたまりのまま冷凍されて後から分けにくくなり、結局は使わずに新しく作り直すほうを選んでしまう。
二品を別々に作っても、根本の解決にはならない理由
反射的に思いつく次の一手は、家族用の一品と、偏食の子用のもう一品を、毎晩それぞれ別に作ることだ。だがこれは、ひとつの失敗を、より広い範囲の失敗に置き換えているだけになる。材料のリストがひとつからふたつに増え、仕上げのタイミングを同時に合わせなければならない工程もふたつになり、それぞれが食べきれずに終わるリスクを、完成した料理ふたつぶん抱えることになる。動く部品の数が倍になれば、うまくいく確率が倍になるわけではなく、少なくともどちらか一方が無駄になる確率のほうがだいたい倍になる。しかもこれは、もともとあった「今夜何を作るか」という決断に、もうひとつ決断を上乗せすることでもある。決断疲れというのは、まさに人がいちばん早くて慣れたやり方に戻ってしまう状態のことで、たいていはまた同じ、作りすぎた「保険用の一品」に戻ってしまう。六時の時点で、「今回は違うやり方をしてみよう」と考える余力はもう残っていないからだ。
実際に効くのは、共通のベースをひとつ作り、最後の一手だけ分けること
効果があるのは、「一品にするか二品にするか」を選ぶことではなく、まず全員で共有できるベースをひとつ作ることだ。同じ、味つけ前のたんぱく質、同じ主食、同じ、鍋のなかでソースや調味料を加えていない野菜。分かれるのは最後の一手だけで、それも鍋の中ではなく、それぞれの皿の上で行う。ソースをかける皿とかけない皿があるというのは、ひとつの料理の中の分岐であって、材料リストがふたつある別々のレシピではない。しかもこのベース自体は偏食向けに作られたものではないので、手をつけられずに戻ってきた分も、ただの味つけ前のご飯とお肉のままだ。翌日のチャーハンやお弁当にそのまま使いやすく、一人の口だけに合わせて作られた、他の誰の残り物にもならない特別メニューにはならない。
保険用の一品は、大きく作って偶にではなく、小さく分けて頻繁に作る
その日誰がどれだけ食べるか読めない家庭で役に立つ、冷凍庫の使い方の考え方は、ここにもそのまま当てはまる。いちばん確実な保険用の一品も、一度にまとめて大きく作ってしまうと、一食で食べきれなかった瞬間、それ自体が新しい余り物問題になる。冷凍する前に一食分ずつ小分けにしておけば、同じ量が何度分もの独立した「保険の晩」になり、部分的に解凍しにくく、存在自体を忘れられがちな、ひとかたまりの塊にはならない。小さく用意された一食分は、深く考えずにそのまま使われる。大きなかたまりは、五分の一だけ使っても残り五分の四に次の行き先がないまま、そこに置かれ続ける。
本当に難しいのは、料理そのものではないことが多い
買い物や料理を担当する大人がひとりではない家庭では、この保険用の一品自体が、食べる・食べないとはまったく関係のない無駄を静かに生み出す。すでにパントリーの奥に同じ袋のうどんがあるのに、それが見えていないせいで、また同じものが買われる。次に断られたときのためにと、わざわざ小分けにして冷凍しておいた保険の一食分が、冷凍庫を片づけていた家族の手で捨てられてしまう。名前のないただの容器からは、それが意図して残されたものだとは誰にもわからないからだ。これらはどれも、偏食そのものとは関係がない。同じ台所を複数人で管理しているのに、いま実際に何があるかを、みんなで共有できる形になっていない、それだけのことだ。
実際に効くこと
- 共通のベースをひとつ作り、分岐は盛りつけの最後の一手にまわす。味つけ前の共通ベースなら、材料リストも仕上げの工程もひとつで済み、断られたときにも、その子専用に作った一品より次の行き先が見つかりやすい。
- 保険用の一品は、大きな一かたまりではなく一食分ずつ冷凍する。小さく用意された一食分は次の大変な晩にそのまま使われるが、大きなかたまりは解凍する価値がないと感じるところまで放置されやすい。
- 断られた晩ごはんは、できる限り混ぜて盛りつけた完成品の形で出さない。材料を分けたまま扱えば、食べきれなかった分は誰も温め直したがらない一皿ではなく、翌日にも使える食材のままでいられる。
- 今どんな保険の在庫があるか、料理する人なら誰でも見える状態にしておく。買いすぎた同じうどんと、間違って捨てられた保険用の一食分は、根っこは同じ問題だ。ひとりの記憶だけが頼りの備えは、その人がいなければ存在しないのと同じになる。
これは、料理する人がひとりではない家庭のために Munch が埋めようとしている隙間そのものに近い。家族全員で同じ在庫を共有し、食材を追加したり使ったりするたびにリアルタイムで更新されるので、冷凍しておいた保険用の一食分も、誰かに知らないうちに片づけられてしまう名前のない容器ではなく、目に見える、日付つきのバッチとして残る。レシピも、冷蔵庫にすでにある、開封済みの食材をもとにグループ分けされているので、今夜の共通ベースを何で作るかは、ひとりの記憶に頼らなくても決められる。
ここまでのことは、偏食の子に違う食べ方をさせようという話でもなければ、誰かの子育てのやり方を評価する話でもない。毎晩、事前には読めない決断を、代わりの案なしに下し続けている以上、そこである程度の無駄が生まれるのはもともと避けられないことで、その無駄の大部分は、保険用の一品をどう作り、どう保存しておくかで解決できる。野菜をどれだけ強く言い聞かせるかとは、あまり関係がない。